死を語り合い 生を見つめる 「デスカフェ」催し各地で
新聞朝刊の 文化・文芸欄を見ていたら上記のような見出しが目についた。飲み物を片手に、気軽に死を語るイベントが各地で広がっているという。
欧米ではこの「デスカフェ」がはやっているという。「長く生きるには『生』だけを考えていても限界がある」というが、なんとも不明な哲学的な考え方だ。
「生きることと死ぬことには境があるのか」、これまた難解な提示ではなかろうか。こうしたことなどを話し合うようだ。
「川は海に流れ込んでいき、淡水と海水が混じりあう。生と死はそんな関係に思える」そこから話題は、そもそも「生きる」とはどういうことかへ話が移っていくこともあるという。こんなおしゃべり会を持ちたい人、あなたもそんな「デスカフェ」を主宰しませんか。
ところで、死を語るの『死』はどんな字なのだろうか。
『死』は 説文解字(許慎)に「つきる・人の終わり」だとあり、「澌(つきる)(流れが細る)なり。人の離れるところなり。歹に従い人に従う」と書かれています。
これは「死とはシ(ばらばら・つきる)ことであり、人の離るる所だ」ということです。
下村式では次のように説明します。
「歹」(骨の形)と「匕」(人の逆さになった形で、人の様子が変わること)、すなわち【人が死ぬと骨になり、様子が変わる意味】であり、人が死ぬと、肉が落ち骨になることから<しぬ・ころす>の意味を表す」、と。